
目次
憲法誤読本1
滅び行く集団としての王家/動物学的アプローチ
女帝の可能性/法の適用
国際政治の自習帳‐アジアの王国‐
滅び行く王家
その他王制関連
2001.12.06〜2002.12.19
週刊 ご都合通信に掲載したものです。
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憲法誤読本1(2001年11月22日発信再掲)
まず憲法第1条を読んでいただく。
第1章 天皇
第1条 天皇の地位・国民主権
天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。
ついで、第14条を読んでください。
第14条 法の下の平等,貴族の禁止,栄典
すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。
華族その他の貴族の制度は,これを認めない。
栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない。栄典の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する。
筆者が憲法を社会科で学んだのは、高校時代と思われる。あるいは、中学でも学んだかもしれないが。
結論を言うと、日本国では天皇制は存在し難い。
国民の総意とは何かが筆者の第一の疑問であった。高校生の筆者には選挙権もなかったが、日本国民ではあった。今は成人して久しい。国民である筆者は天皇制を認めない立場にあるが、憲法は国民の総意という、いわば稀な条件下で天皇制の存在をありえるとしながら、つづく14条の法の下の平等では自らも天皇制を否定する内容になっている。
そもそも、国民は平等であるとしながら、貴族の制度は認めないと規定しながら、天皇の存在を強引にも認めさせようとしている。
主権を持つ日本国民の誰かが、天皇を天皇制を否といえば、途端に天皇と天皇制はその存在基盤を失ってしまう。総意というありえない規定は筆が滑って一言多かったのだろう。しかし、明文化されているのだから、今更といわれて目をつぶる訳にはいかない。
天皇制をどうしますかと、成人になったからといって、聞かれる訳ではないが、意思表明の場をそもそも用意せず、こっそり存続させているのが日本の王家、天皇・天皇制の存在様式なのである。
天皇および、いわゆる皇族方が日本国籍を有しない人々であることを筆者は心得ている。彼らが日本人でないから、平等の対象とならないというならば、日本人でもない人達を敬い、税金まで差し出すいわれはない
地球規模で絶滅を危惧される動植物が見られる。あるいは、一刻一刻失われる動植物がいるとされている。
大型哺乳動物の種の保存を考えた場合、繁殖可能な健全な個体が50〜500個体必要と云われる。巾のある数値であるが、いずれ継続的な繁殖・種の保存には一定数以上の個体数が必要とされる。
秩父の山中に日本オオカミがいる。あるいは、日本カワウソが高知の新庄川にいる。とする人達がいるが、その存在を信じる人は少ない。なぜならば、世代交代が可能な数の残存はどう考えてもありえないからである。一頭のオオカミやカワウソがいたとして、その寿命を十数年とすると、目撃頻度からして絶滅を認めざるを得ないのが実態であろう。
一方、絶滅が確実視されていた四国のツキノワグマが徳島県で生存が確認され、数頭の生存が予測された。
また、中国山地のツキノワグマは相当数がいるようだが、遺伝子的に多様性を失っていて、いずれ絶滅は免れないとの指摘がある。
相当数の個体が生き残っていても、その生息域が分断され交配が広く行われないと、遺伝子的にも近縁な個体同士の交配となり、種としての活性を喪失する。これは、米国フロリダ半島のパンサーについての研究が先鞭をつけたものだが、大型哺乳動物に共通する問題である。
生存数のみならず、種の中での遺伝子の多様性も問題となるようでは、種の保存に必要な数は500個体以上と考えるのが妥当なようである。
緑の回廊を作り、動物の行動範囲を広げる運動もあるが、なかなか成果は期待できない。
女帝の可能性/法の適用(2001年12月6日発信再掲)
子の誕生は、親となる夫婦とその親族にとって、基本的に祝い事であるから、論評を避けようとしていたが、危険な動きがあるので論評せざるを得ない。
その危険な動きとは、皇室典範を変えて女帝への道を開き、立憲君主制を墨守しようというアナクロニズムがあるということである。
スポーツで競技開始後ルールを変えては競技にならない。したがって、皇室典範を改定しても、その時点以降の誕生でなければ、皇位の継承権はないと指摘しておく。
いや、現在の皇室典範を前提条件で皇室があり得るとするならば、未来永劫ルール改定は許されない。
民主主義を善とするならば、皇位継承者の消滅を待って、皇室制度そのものを廃止に持ってゆくことが穏健なやり方である。いたづらに制度の継続に固執すると、将来、その時点で皇位にある者を強制的に廃絶する事態を招来することになりかねない。
ひとの上にひとをつくらず、ひとの下にひとをつくらず。
当たり前のことが分からないと、民主主義さえ実現できない。
国際政治の自習帳‐アジアの王国‐(2001年12月20日発信再掲)
アジアには7カ国の王政の国家がある。
日本国、タイ王国、マレーシア、ブルネイ・ダルサラーム国、カンボジア王国、ネパール王国そうして、ブータン王国である。
日本国は象徴天皇制の立憲君主制、ブータン王国は国王親政の絶対君主制、その他は立憲君主制である。
その外は、共和制とされているが多様で視点により多様に論じられよう。立法府・行政府・司法府の実態については今後の検討課題とする。
アジアの7カ国は資料の範囲では全て王で、女王は居ないようである。
日本国とネパール王国は王位の継承を男子に限定している。タイ王国は、国王の後継指名で女王も可能とされている。その外は本通信の資料の範囲では確認されていない。大使館のHPを見ると、国王をまず紹介している国もあれば、そうでない国もある。
マレーシアは、国内9州のスルタンによる互選、カンボジアは王位委員会の決定によるとされている。
オセアニアに2カ国、中東に8カ国の王政の国家がある。中東の王政には首長国・スルタン制などがあって、なお吟味が必要である。
滅び行く王家(2001年12月20日発信再掲)
世界には今40カ国近くの王国がある。王あるいは首長を国家元首としている。アジア・オセアニアに17カ国、中南米に9カ国、欧州に10カ国そうして、アフリカに3カ国である。
王家の成立過程を見ると、蕃国・部族国家・首長国が統一される過程で、勝者が王を宣言する。首長の座は譲ったものの負けなかった者、配下にあって統一に貢献したものが地域を安堵され公・候を称する。それらの者が、貴族・華族として、その後の王家の裾野を形成してきた。
政治制度として見た時、世界の王家は世紀を重ねるごとに廃絶されつつある。王家の存在は、基本的には、民主主義の徹底とともに廃絶の道を辿りつつあるといえる。
今日残存する王国においても、絶対権力を失い国会・民族大会などに実務的権力の移行が認められる。王国の衰退期にあると見てよい。
これまでの王家の廃絶を見ると、追放・暗殺・亡命と穏やかならぬ形態にある。王は、自ら退位する潔さがないのがひとつの原因であろう。断頭台の露と消えた王もいる。
王家の生き残りへの努力は、政治的無害や希少な存在であるとか、もっぱら情緒的な訴えに終始している。
日本の王家・皇室を見ても、貴族制度を裾野として維持されてきた。
日本の貴族・華族制度は、皇族・貴族のいわば数世紀前の権力者集団である京都グループ、徳川政権時の領主が明治政府の成立とともに新たに設けられた新華族グループによって構成された。
明治・大正・昭和前期の皇室は、今よりは余ほど裕福であって、貴族・華族を経済的にも支えていた。貴族・華族グループも姻戚関係でこれに答えていた。
無論例外もあって、公武合体がそうした一面である。
しかしながら、太平洋・アジアでの戦争に敗北し、華族制度は廃止しなければならなかった。王家のみを存続させた。
貴族・華族制度の廃止は、皇室・天皇家を孤立させた。皇統を継続させようとして、それが叶わなくなった。
やむを得ず「平民」の血を導入せざるを得なかった。
しかし、「平民」の血=遺伝子を取り込めば、それによって皇統の血を喪失させることに繋がってしまった。
時代の流れ、万民は平等である民主主義を是とするならば、皇統の絶えるをもって、王家・皇室を廃絶する道を甘受すべきであるだろう。
王家の文化財的側面と王家の遺産を過去の遺産として文化史的に保存する手立てを考えるべきであろう。
新宮が女子であったことから、皇室典範を改正して女帝の道を画策する動きがある。
本通信は天皇制反対であって先の動きは論外であるが、現実は日本に王制があるのだから議論せざるを得ない。
火事場泥棒的動きは不愉快である。
出かけた家人が号外をもらってきた。天皇家、東宮に子が生まれたという。
夜になってTVを見ると奪い合うように号外を手にする市民が映されていた。しかし、家人いわくそれほど人が群がる様子はなかったという。報道の嘘といえば言い過ぎなのだろうが、良いショットを狙ったのだろう。
またTVでは、マイクを向けられた人達は皆、祝意を表明する。どうあれ祝うべき事象であるから祝意を述べるのであろう。国民みなが祝うと思ったら大違いである。
ここにも報道の作為が見られる。
ところで最初の新聞の号外の話をもうひとつ。発行した新聞社が違うのに、東宮夫婦がそろった同じ写真である。代表取材というがまったく同じ写真で、その他の写真にも同じ構図が見られた。宮内庁からの「ご指導」があったのだろう。
あるいは、号外を出すこと自体、「賢き所」から要請なり、強制があったように思われる。
報道とは何か、大いに反省してもらいたい。
12月3日朝、四谷駅から半蔵門に向かうと(皇居方面)、新宿通りの両側の街灯に日の丸が下げられていた。
月曜日、週の始まりなのに、「祭日を間違えて出社してしまった。」と思わず感じた。
日本の報道界は、新聞・週刊誌・TVとメジャーと思われるものは全て、礼賛の皇室報道を行っている。
12月の「新宮」誕生前も後もそうである。
日本の王政は今少なくも制度的に、存亡の危機にある。
すなわち、王位継承者を男子に限定していて、30数年の期間、男子の誕生がない。皇統断絶は時間の問題といえる。
火事場泥棒の如く、女子に王位の継承を認めようと、盛んにアドバルーンを揚げている。
「新宮」誕生の「祝い事」を受けて、女子の王位継承の賛成者が多いなどという、失笑ものの「世論調査」さえある。
報道機関は、その手の恥ずべき「世論操作」に加担すべきでない。
一部に、日本国の女王制に問題があることを指摘する記事もあるが、少数意見としての扱われ方である。
国民主権との関係、民主主義との親和性について考える必要がある。
筆者および、本通信の見地は明らかである。
天皇制はこれを速やかに廃すべき。
部族社会が連合・集中して大和朝廷を成立させたことが日本の国家としての成り立ちと思われる。
部族の長である者は、武力・経済力・政治力に抜きん出て優越した存在であったろう。
武力とは、青銅器であれ鉄器であれへ行きとして先進性と量的優位との双方を併せ持っていたことと思われる。
経済力とは、定住する集落として大規模であって、安定した収穫を得られた農耕を意味しよう。
政治力とは、祭政一致の時代ではあるが、一族として繁栄しかつ周辺に対しては友誼に満ちた部族であったろう。
少なくもひ弱ではなかったはずである。
外敵に対しては、政治・経済上の戦いのほか武力による戦いも当然あったはずで、王家は自らも戦った時代があったろう。嗜み以上の武人としての力量を持っていたことだろう。
荘園を経営するようになって侍を雇うようになってからは、柔弱になったようで住まいも都に拘泥するようになり、侍出身の守護大名に領地を蚕食されるようになる。
戦国時代の王家は零落し、三度の食事にも事欠いたと伝えられている。即位の礼も当然ままならなかったという。
群雄割拠の大名国家軍の中にあって、歴史的に奇跡といえる幸運があって存続した王家は、江戸時代には徳川幕府の庇護の下、祭礼集団として存在を許される。
つづく明治の御世は、徳川政権が統治能力を失う中、王家は政治勢力の空白の中から、また、澱みの中の渦の中央を廻る落ち葉の如く、ひと時の安穏を許されたかのように王制が復活する。若き明治政府の高官の庇護の下に。
また、煽てられ白馬にまたがり国軍を閲兵もした者が、後に人間天皇を宣言し、平和の祭典オリンピック開会をたどたどしくも宣言したのが昭和天皇の「政治の玩具たる姿」である。
かつて、猛々しく部族を率い戦った王族の末裔達の、今は弱弱しい姿を堀の内に見ているのだ。
王が猛々しい必要がないように、王政そのものの必要がないのだ。民主主義に整合する君主制は歴史の欺瞞のひと時のことなのである。いずれ消滅するならば、平和裏に幕引きを考えるべきなのである。
王家に未来はあるのか。
王家の存在しうる条件とは何であろうか。
国際親善が第一に言われようか。国家規模の遊び人として、持て余す時間を利用して、主として問題のない・歓迎を受けられる国を訪ねる。中国・韓国訪問など、日本の王家にとって必ずしも安心ならぬ親善ならぬ懺悔込みの訪問もある。親しい仲の米国訪問も実は問題がなかったわけではない。
しかし、国家間の儀礼、基本的には歓迎されるからついつい国際親善に役立っているかの幻想を与えてしまう。最近も欧州で日本国王=エンペラーの訪問に抗議するデモがあったことは肝に銘ずべきことである。
これらは日本国が最大の国際間の紛争=戦争に整然たる処置を怠っている政治屋の罪であるから、王家も被害者の部類かもしれない。
最近ではアフガニスタン、ちょいと昔ではタイ王国などでは、国家的失敗時をチャラにする魔法として王家のご意向やら、国王への忠誠が便法として使われる例がある。社会・政治の安泰の方便として一定の効用があったことは外国の例としては、王制を執るも廃するもその国の問題であるから、内政干渉を排する視点から認めても良い。
先日、懐かしの映画「ローマの休日」をTVで観た。王女は記者会見で、台本があるとはいえ、政治・社会問題の発言を求められ答えていた。
実際の王家にあってもそうなのであろう。
しかし、日本国の王家にはまともな「お話」が期待できないと不安に思うのは筆者だけであろうか。
むしろ、筆者は王家の終焉の演出は国民と政治家に課せられた民主国家の試金石と思える。
平和的に王家を終わらせる知恵があるのかどうか、私の関心はそこにある。
ILJ( I Love Japan )コーナー/ 日本の病巣―叙勲制度―
政府が叙勲制度の改革に着手している。勲等を簡素化するともいう。
叙勲制度には、存在そのものの他、官民格差・位階に問題点が指摘されてきた。
人殺しの軍人が勲章を正装に飾り立て、官僚が悪事を暴露されなかったご褒美に高い勲位をいただく。あるいは、皇室に嫁しただけで宝冠を頂戴する。
勲章を欲しがる者は政財界の外、学界に多い。中にはさして欲しくもないが、先例を思って貰ってしまう者もいるという。誰が貰って、誰が貰わぬでは、やがて己が貰えぬと考えるのであろう。所属の組織・業界の推薦制度がそうさせるようだ。
少なくも民は、お上・政治屋に褒められるようになってはお終いだ。
日本語講座/国家元首
主要国首脳会議出席者は、大統領であり首相だ。慣習的には首相に対し、大統領が上席を与えられる。
大統領か首相のいずれかがいる国、大統領と首相とがともにいる国がある。
日本の国家元首は制度的に天皇である。首相は行政府の最高責任者で、国会で選出される。
大統領は、国により選挙制度は多様だが、直接選挙で選出されるのが一般であろう。
軍事政権は、大佐である場合さえある。一般に大佐は最上位の軍人ではない。
社会主義国では色々だ、党の最高責任者であるのが普通だが、国会のような機関の議長であったり、軍の最高責任者であったり、それらを兼任していたりする。
北朝鮮では、とにもかくにも金正日が国家元首なのであろう。
どれほどの権限があるのか知れないが、別に行政府の長がいるのだろう。
そうであるとすれば、小泉首相はどうも格上の人と会談することになるようだ。
日本の天皇が国事行為上の最高責任者ではなく、首相がその任に当たっていると、北朝鮮当局ばかりか、全世界に熟知してもらわないといけない。
しかし、そうすると天皇って一体何という疑問が出てくる。
屋上屋の国家機構が此処にも矛盾を露呈する。
第1章 天皇
第1条 天皇の地位・国民主権
天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく。
ご都合通信および、糠田良介は天皇制を認めていません。
ご迷惑をかけたカナダ大使館とカナダ政府にお詫びをするのが第一であろう。
スカッシュというスポーツは、壁に硬質ゴムのボールを打ち・連打するもので、フィールド及びラケットはともに卓球と庭球の中間規模のスポーツである。大きな建物であれば地下室で出来るスポーツである。
競技としては、ふたりして壁に向き、交互に打ちリバウンドを逸らすと失点になる。そうした競技と覚えている。
マイナーなスポーツだが、卓球・庭球同様に非常に運動量のある競技である。
コーチが付いていたとの事であるが、中高年には厳しいスポーツである。
心臓疾患(心室細動)が死因と伝えられるが、たまたまの体調不良とも考えることが出来る。
一方では、心室細動は不摂生のなせる業とも言う。
なによりも、舞台となったのが外国公館であることは、相手国に無用の面倒をかけたことになる。
非礼のひとつであろう。
男子ゴルフツアー最終戦の放送中、ホールアウトした選手をアナウンサーがその選手の誕生日と紹介した。
解説者が、12月1日は皇室の東宮の女子の誕生日であることを得意げに言い、「忘れてはならない。」と教え諭す口調。
とんでもの尊皇の人である。
聞いていて、一体日本って何なのと思った。
王制否定に関わらず文章が少ないと感じ、発信履歴を調べて見た。
後編の9編は、特集:王制‐その未来‐の前後に発信されたものである。
最後に友好HP Kohnosu golfer's club に掲載された 清水 明氏 の小説をご紹介する。
日本国皇室の終焉のあり方を示唆・暗示する秀作である。